昭和四十八年七月二十八日 御理解第二節及び三節前半


  先の世までも持って行かれ子孫までも残るものは神徳じゃ。
 神徳は信心すれば誰でも受けることが出来る。みてることがない。


  天地金乃神の申すことは、天地の間に氏子居っておかげを知らず、神仏の宮、寺、氏子の家宅皆神の地所。其理知らず方角日柄ばかり見て無礼致し、前々の巡り合わせで難を受け居る。


 これは大変難しく解かれておるところでございますけれども、私はここのところをですね、天地金乃神と申すことはと云うことは、難しく頂かずに天地金乃神様と云うお方はね、と云う風に頂いたらどうでしょうかね。
 天地金乃神様と云うお方は、天地の間に氏子居っておかげを知らずと仰る。天地の間にはもう天地の御恩徳が張り溢れておると云うこと。その事を知らないと云う風に頂いたらどうでしょうか。
 その理知らず、神仏の宮寺氏子の家宅、皆神の地所。その理知らず日柄方角・・・・日柄ばかり見てと云うところは、神様はそういう御神徳溢れる中に住まわせて頂いとる私達がです、そのおかげを知らず、神仏の宮寺と日柄方位と云うところは、日柄方角ばかりと云うところは、私共はいわば見当違いの思い方そういう考え方をしておるところに、それがめぐりとなり難儀の元になっておるとこう教えて居られるんですから、 天地金乃神と云うお方はです。
 だから今度は御理解第二節
 天地金乃神様と云うお方はそこのところは分からせて貰って、天地の御恩徳が分からせて貰い、思い違い考え違いをせずに無礼するのではなくて、神様に喜んで頂く生き方にならせて頂けばです、今日の御理解からいくと神徳が受けられると云うことになるのです。 信心すればと云うところは、根本のところが分かって信心する。天地金乃神様と云うお方はねと、こういう心の状態になりこういう生き方になれば何時までもあの世に持って行けたりこの世に残しておけたりする程しの御神徳を下さる様なお方だと。
 御理解三節のところでは説明してあるのですよね。
 ですからそこのところを先ず、天地金乃神様と云う方はね、神様の御心にいわば添い奉って、云うなら今まで永年思い違い考え違いをしておった事、そういうことを分からせて貰うて、いわゆる真の道をいわば行じていく真の人としての生き方をさせて貰う。今までの思い違い考え違いは、お粗末御無礼は平に平に御許しを願うておかげを頂いて行くと云う行き方になれば、天地金乃神と申すお方はそういう氏子の上に限りなく神徳を下さることの出来る神様。
 何故って、天地の間に満ち溢れておるお徳の・・・ものをもっておられるのだから。
 だからそこんところが、私共が分からせて頂いたら天地金乃神様というお方は、こういう心の状態こういう心の在り方にならせて貰わねばいけない。それが実に難しいことでもなければ難儀なことでもない。もう実に素晴らしい、もう云うならば楽しう嬉しう出来れる信心生活を教祖金光大神は教えて居られる。
 そういう生き方になればお徳は、神徳は誰でも受けられるのであります。だから誰でもが分かりさえすればその生き方にならせて頂ける程しの容易い道なんです。天地金乃神様と申される方は、そういう氏子の上に限りなくお徳を下さるのです。
 持って行かれ、子孫にも残しておけれる程しのもの、だから此処容易う今までの習慣とか観念と云うものをだから捨て切ることなんです。でなければいけませんね。
 天地金乃神様と云われる方が、こうも云うて下さる教えて下さるのだけれどもと云うてはいけない。
 昨日の御理解の中の最後のところへ、夢楽庵の話を頂きましたね。夢の楽と書いて夢楽、そのことを神様にどういう事かとお願いさせて貰いよったら、ふだん草と云う野菜を頂いて、その裏表を頂いた。信心させて頂いたらいつも紋付袴を着けて居らなければならん。いつも合楽の教会に居る時の様にばっかりはしとらんならんと云うことは決してない。裏があって、なからなければいけない。人間だから。これが神様なら表だけで行くぞと云うたら出来なさるかも知れんけれども、そこが人間だから裏もあってよし、表もなからなければならんのであり、紋付袴着けとるときもありゃ、寝衣を着とるときもありゃ、浴衣がけのときもありゃ、背広のときもある。様々なところもあってよいのだ。と、云うて口に真を語りつつ心に真のなきことと云った様なそういう裏表のことじゃないです、ね。
 だから天地金乃神様と申される方が、のお心と云うか金光大神がそれを取次教えて下さると云うことは、だから容易う人間が助かることの為に在る。知って頂く信心だと云うことをです、先ず分からにゃいかん。それには先ず私共が人間らしゅう在らねばいけん。
 万物の霊長らしくもならねばいけん。そして今までの観念、難儀の元を作る様な観念、云うならば自分のものでもないものを自分のものと思うておったり、日柄方角ばかり見てと云うことは、思い違い考え違い違ったことをそうと思い込んででおる様なことを先ず改めて行かねばならんと云うことになる。そういう生き方にならせて貰う氏子の上には限りなく御神徳が受けられると仰る。
 だから先ずそこんところを腹の中に入れておいてからの信心でなからなければいかん。成程自分はどうもまだ観念に左右されておる、まあだ考え違い思い違いをしておると、云うところを気付かせて頂いて信心すればでなければいけません。成程そういう信心させて頂けば神徳は誰でも受けられる。
     ∞    ∞   ∞                
 今朝の御祈念に私は或方のことをお願いさせて貰いよった。そしたら三味線を弾いておるところが一生懸命揆をかけて一生懸命弾いておるが竿のところをわし握りにしておる。だから音色が出る段じゃない。じゃんじゃん、じゃんじゃん弾きよるだけである。 竿を握ってならんと云うことじゃない。握らにゃならんけれども、つぼつぼを一寸こうやって押さえてゆかにゃならん。そこにきが何と云うでしょうか、夢楽庵の御理解でしたね、昨日のところ。それを今日云う裏もあってよい、表もなからねばならんそういことです。
いわゆる握りどころが違うとるのである。信心のいわゆる肝心要のところを把握すると云うことである。把握すると云うことは握ると云うことである。握るところ、握っておってゆくところに勘どころと云うかつぼと云うものを押さえてゆきよるところに揆の方はこうやった一生懸命に弾きよるとですから、それは長唄なら長唄、浄瑠璃なら浄瑠璃なんでも弾けるわけです。その道を教えて頂くんだからね。いわば合楽はまあ信心の稽古と云うことは三味線の稽古と云うてもよいわけです。
 だからようやく弾きなろうた、まだ調子も合わん位、でもここで調子を合わせて貰うたり、まあ云うなら竹に雀どんがようやく竹に雀が止まるところから、もう長唄なら長唄あたりのところを握っとかなければ駄目だと云うこと。把握しどころが違う。
 今日私が御理解第三節から聞いて頂いたのはここのところが先ず分からなければ先ず握ってからの信心でなければ観念の上にもまた思い違い考え違いの上にも。
  ∞       ∞      ∞  
  先日からの堤清さんの霊祭のときに、やっぱり三味線でお知らせを頂いた。それは揆ではなくて、云うならば爪弾きをしているところ、爪弾きと云うことは妻と云うことは家内のこと。家内と云うことは家中のこと。その家中の信心を弾くと云うことはお導きをすると云うこと。
 これは家内中だけのことじゃないです。お導きをすると云うことは沢山の人にすると段々頂いて行って良いわけです。家内と云うことは家中のことである。だから日本中と云うても良いわけです。
 ですからそれを導かせるために、その色々と夢の中にお知らせを頂いたりいろんな事柄の中からいろんなお気付を頂きよるんだけれども、こちらがそれを聞き取るところのものを持たないところに、御霊さんが大変疲れると云うたと、お夢の中で。
 もう自分は人を導けれる資格も頂いて居る。お夢の中にですよ。けれども導かれようとする姿勢を取らないから大変疲れると云うところを頂いておる。
 今日のは揆をかけて弾いておると云うことは、揆と云うことは私はお道には罰と云うことはないですからお気付を頂く。それこそじゃじゃん云うごとお気付を頂いとるのだけれども、それを握るところを握りそこのうとりますから、お気付をどうしてこんなにやかましい、どうしてどうしてこんなに家には難儀なことが続くじゃろうかとその人が云うておると、云うことなんです。
 それは肝心要のところを把握しとらんからだと云うこと。そこで、なら信心の例えば具体的な把握のしどころと云うことを御理解三節から聞いて頂いた様に、又肝心の内容は何処かということになると、信心は本心の玉を研くものであり、日々の改まりが第一だと云うことなのです。
 ですからどうして家の者は信心して呉れんじゃろうか、どうして家は難儀が続くじゃろうか。神様はおかげを下さろうとする働き、云うならばその揆をかけてね。
 揆と云うことは難儀と云うても良いでしょう。それをまあお気付けと頂かねばいけんでしょう。どうしてこの難儀なことから其難儀から助けて下さい、救うて下さいばっかり云うとったちゃいけん。 それはどういう事かと云うことを分からせて貰うて、御理解三節の中から申しました様な肝心要のところの、いわば頂きどころと云うものを把握していないと云うこと。同時に神様はそれをもって願え、それをもって改まれ、それをもって研けと云うてござる。
 問題を願う、その事を願わずにその事に依って研こうとせずにその事を通して改まろうとせずにしておる様なことではおかげにならん。気が付かん。
 もうじゃんじゃら、じゃんじゃん云うごとお気付は頂きよるんだけれども、お気付をお気付けと気がが付かずに、どうして私はこげん難儀な思いをせんならんじゃろうかと云うとる。その事を通して家内中の者も信心してやろうと云う、云うなら働きもありよるのにです、それでは家内中のお導きも出来ないことになる。それでは自分自身も信心すれば誰でも徳が受けられると云う徳は受けられないと、云うことになるのです。
 皆さん今日はいっちょ改めてです、金光教の信心の把握のしどころと云うものは御理解三節の前半のところ、
 天地金乃神と申すことは、天地金乃神と云うお方はね、と云う風に頂いて、こういう考え方、こういう生き方になれば御理解二節、
 信心すれば誰でもお徳が受けられると云うおかげになってくる。だからここんところで、金光教の信心をがっちりと受け止め把握しなければいけません。そしてその把握の内容がです、信心とは本心の玉を研くものだと、日々の改まりが第一だと仰るのだからそこに例えば、難儀な問題が起きたならばです、
 例えば先日から本当に長々しい間、雨が降ればそこがじゃじゃ漏りする。さあ大祭も近づいて來よると云うのに、地下室はまだそのままにうっぽんぽんである。あの道具の持って行き場が無い。まあどうした本当に信者、幹部、総代さん達は何しよるじゃろうか。いっちょんあれが気にならんとじゃろうか。業者も業者と云う頂方ではいけないと云うこと。これはなら私自身がです、合楽教会長として、こういう不用なことになっってくると云うことは、これは私自身の中に無様なものがあるからだと悟らなければいけない。だからこれが永かってもどがしてからでも、だからこれが一年二年放っからかして上が腐ってもよかと云う気持ちにならにゃいかんことが分かるでしょう。
だから私が言わん。どうしてか、どうしてせんかと言わん。
 それをさあ大工にじゃんじゃん電話が來る、さあ左官にどんどん電話かけて私がですよ、信者がそういう働きになって来なければならん。私がしとって出来よったところでその難儀と云うものはまた何処からか表れて來る。
 それを自分の信心の無様であることを一つ分からせて頂いてです、本気で本心の玉を研き改まらせて頂く事に私が精進させて頂くところからです、成程神様はこういう御都合であったかと云う御都合にもつながって來るのです。そういう生き方が御神徳を受けて行く行き方なんです。又そういう信心でなからなければ金光様の御信心はそういう信心なんだ。
 そのことをもって研く、
 そのことをもって改まる。
 その事とは、自分が困った事とか難儀とか感じておることですよ。それを助けて下さいだけじゃない。その事をもって私が分からなければならないところを分からなければいけないとこういうのである。 そういう信心させて頂けば誰でも受けられるのが御神徳である。しかもその御神徳はあの世まで持って行け、先の世まで持って行かれ子孫までも残ると云う程しのものですから、私共そこんところをいよいよ本気で頂かせて貰う、金光教の先ず把握が大事、そして園内容であるところの肝心要のところをおかげを頂いて、なら信心ちゃ難しい決して私共が裏もあってよか表もあってよかと云う行き方。それを信心に基いてなさして貰う行き方、そこの例えば三味線のつぼで云うなら勘処なら勘処を押さえて行かなければ良い音色は出ない。そこんところをがし握りしとったっちゃお気付きをお気付きとも悟ることも分かることも出来ないわけですから、がし握りじゃいかん。握り処を握ることはまず金光教の把握と云うこと。
 そこを把握しといてから、云うなら甲なら甲、乙なら乙のところを押さえて行けばそこから楽しい曲が流れ出来て來るように楽しいおかげが受けられると云うこと。
 そういう例えば三味線の好きな人が三味線を弾いておるときには、それこそ頭が痛かったっちゃ、痛かつを覚えん位に楽しい様に私共信心生活を本当にまともにさせて頂くならばです、例えば痛い痒いを忘れる位な楽しさが信心にはある筈です。あるんです、そういう信心を身に付けて行かなければいけない。どうぞ。